「現代の理論」No.197 1984.1掲載 「玉砕か」「不戦か」        溝口 正 l  昨年九月十九日牛後、衆議院予算委委員会において中曽根首相 と社会党石橋委員長との間で所謂「非武装中立論争」が行なわれた。 国家の針路について党首が堂々と公開論争するの画期的なことで歓迎したい。 前々から石橋氏は公開討論を自民党に呼びかけていたが、首相はこれに応じょうとしなかった。 たまたま大韓航空機撃墜事件が起るや、政府は矢継早に反ソ宣伝展開するなかで、 一転して首租の方から挑戦して石橋氏を国会論争へ引き込んだ形となった。 国民の反ソ感情の高まりを背景に社会党の非武装中立政策の非現実性を印象付けようとする 首相の狡猾な政治戦略であった。その点、時期的に石橋氏に不利であったことは否めない。 両者の嘗論争を新聞で読みながら、同じ太平洋戦争に参戦した職業軍人でありながら、 なぜこうも敗戦の受けとめ方が違うのだろうかと考え込んでしまった。 戦争体験は必ずしも平和主義者を造り出さないことをまざまざと見ることができた。 よく「戦争体験を語り継ぐ」ということが言われるが、中曽根氏のような人物も多いのであるから、 戦争体験が直ちに平和に結び付くと考えるのは幻想である。 問題は戦争体験から何を学び取るかにかかっている。 石橋氏から「太平洋戦争にあなたも私もはせ参じたが、 これは防衛のための戦争かLと問い詰められた首相は「 私個人は間違った戦争だと反省している」と答えたが、その舌の根の渇かぬうちに 石橋氏の著書「非武装中立論」に「太平洋戦争に負けてよかった」と書いてあることを取り上げ 「それは戦いに疲れた時」の例外であるとして、敗戦を歓迎していない心の底をのぞかせた。 これは間違った戦争(侵略)でも、余力さえあれば勝ちたかったことを告白したもので、 侵略戦争を心から反省していないことを計らずも露呈する結集となった。 両氏の違いはここから出ている。  私は十五年戦争の反省として決定的に重要だと思っていることを五つ挙げてみたい。        第一は、敗戦に至るまでの日本国民を導いた考え方その方針、 国家体制の全体が虚偽で固められていたということである。 皇国史観、八紘一宇、絶対天皇制国家、現人神天皇、神国日本、聖戦等々の虚構が 絶対的権力を背景に強制され、侵略戦争へと国民を総動員したのであった。 敗戦はその虚構を根底から崩壊させた。真面目に虚構に身を投じてきた者は、 敗戦と同時に自己の立つ人生基盤、国家存立の土台が音を立てて崩れ去るの経験したはずである。 もし崩れなかった人があったとすれば、最初から虚構を見ぬいて敗戦を待望していた人か、 または虚構を利用して自己の栄達・利益を計ろうとしていた利己主義者か、 あるいは濁流に押し流されてきただけの人か、そのいずれかではなかろうか。 それによっても敗戦申受けとめ方は違うであろう。  第二は、戦争を始めるのは国民大衆ではないということである。 政府、軍国主義者、超国家主義者、資本家などの一部支配層の私利私欲(これを昔も今も国益と呼ぶ)によって、 国民の知らぬところで突如始まるである。しかるに国民は、国家権力(天皇)の命令一つで、 自分の係わり知らぬ戦争のために生命を投げうって最前線で戦い、 何の恨みもない他国民を殺傷する侵略者(加害者)となったのである。 国民はかかる理不尽かつ悲惨な載争が二度とあってはならないと肝に銘じたのであった。  第三は、沖縄戦や満州開拓民の悲劇が如実に物語るように、軍隊は国民を守ってくれないことを、 事実を通して知ったことである。沖縄では軍隊か最も安全地帯に陣取り、戦闘に役立つ住民は 最も危険な任務を強制され、役立たない者は流民となって敵味方の砲弾の飛び交う中を逃げ迷い、 自決を強要され、味方によって射殺されたのである。しかも住民に自決を強要した軍隊は その後、間もなく降伏したのである。軍人の死者よりも住民の死者の方が圧倒的に多かった事実の示す意味は すこぶる重大である。また満州開拓民を守るべき関東軍は、ソ連参戦と同時に任務を放棄して逃亡したため 残された開拓民め上に襲いかかった悲惨さは言語に絶するものがあった。 軍隊が国民の生命財産を守ってくれるという国防神話は、こにに完全に崩壊し去った。  第四は、降伏は決して国の滅亡を意味するものではないことを知ったことである。もし沖縄戦に読いて 本土決戦が戦われていたとすれば、国民の大半は玉砕し・占領軍によって分割統治されることになったであろう。 無条件降伏は国民の生命を救ったのである。現在の日本国民は、降伏した人々とその子孫たちである。 中曽根首相もその一人であることを忘れてはならない。 この事実から学んだことは、戦争をしなければ国民の生命財産が失われることもなく、 敗戦も降伏も玉砕もないということである。いかなる場合にも不戦を貫徹することが 国民を守る最善の方策であることを知ったのである。  第五に、広島・長崎の原爆体験は、核兵器という「人間が人間の知恵をこえた破壊力を持つに至った」ことを 人類に警告したことである。もし今度世界大戦が起れば核戦争となるのは必至であり人類は滅亡する。 この意味で人類の欝史は最後の段階(週末)に突入するに至ったのである。核兵器の登場は、 人類に共存か確亡かを突きつける最後通告である。日本の原爆体験から世界各国が学ばぬばならぬことは、このことである。   敗戦から得た深刻な反省と重な教訓は大体以上の五点に集約できるであろう。 このすべてを下敷として日本国憲法の前文と第九条と基本的人権尊重の規定は生れためである。 中でも第九条は、戦争放棄、非武装、交戦権の放棄を明白に宣言したもので、 日本は世界で最初の「武装なき不戦国家」として戦後の第一歩を踏み出したのである。 これは十五年戦争の反省の凝結であり、核時代に突入した人類が滅亡を回避し生存を続けるけるために、 世界各国が繁急に採用しなければならぬ唯一の現実的政策を示したものでもあった。 この意味で第九条は歴史的必然の所産である。これを占領軍から押しつけられた売国憲法呼ばわりする者は、 敗戦から何一つ学ばず、核兵器による人類破滅の危機をも理解しない盲目の徒である。  日本が武装なき不戦国家第一号となったことは、全世界から武装国家を一掃するための出発点であった。 新文明の発足であった。第九条の旗を高く掲げて、この世界史的使命に国家の存亡を賭けて突き進むところに 日本国民の存在価値があった。憲法前文はその決意を「日本良民は、国家の名誉にかけ、全力 をあげて1この崇高な理想と目的を達成することを誓う」と表明した。  しかるに、一九五〇年(昭二五)朝鮮戦争勃発を契機として警察予備隊が発足し、それ以降今日までの日本は、 第九条の看板を掲げたまま武装国家への道を歩み続け、僅か三十余年で世界第七位の軍事国家に変貌してしまった。 悲しむべし、国家の名誉をかけた誓いは捨て去られ、世界は稚一つの「武装なき国家」を失い、 軍拡の論理のぬきさしならぬアリ地獄の現実の中に落ち込んでしまった。 ***********************************************  中首根首相は、社会党の石橋委員長の非武装中立論を「降伏論のすすめ」だと批判、国会議争でもそう発言した。 中曽根氏は自分も降伏した軍人で品ることを忘れ去ってしまったかのようである。 三十八年前、降伏せず一級玉砕していたら今頃中曽根氏は首相になるどころか地上には存在しなかったであろう。 玉砕を避けて賢明にも降伏したればこそ国民は生き残り、今日の日本を築くことができたのである。 石橋氏がこの事実を踏えて「降伏した方がいい場合もある」と著者に書き、国民の生命が助かったことを喜んでいる真意をねじ曲げ 「これは大変な言葉で、侵略を誘発する危険がある」と批判し「降伏するのが本当にいいのか。白旗と日の丸は逢う。 日の丸には民族的伝統がある。たとえ、苦労しカネがかかっても、やれるところまで全力を尽くすのが国家のやり方、 政治家のやり方だ」と威勢よく言い切った。軍拡優先と有事における徹底抗戦の意気込みである。 言いかえれば、一億玉砕の構えではないか。  ロンとヤスは共に力の信奉者である。ヤスの運命共同体発言は一挙に日米軍事同盟が強化されたことの表われであり、 米極東戦略の中に日本国民の運南を托したことを意味する。同盟とは言っても、アメリカに対する軍事的隷属の下では、 日本国民の運命をロンの掌中にゆだねたことになる。日本の防衛力強化に対する執ような米国の内政干渉は 、今や当然視きれて反発の声さえ聞かれない。ヤスは「アメリカは必ず日本の救援にかけつけ、在日米軍は全力でやってくれる。 固い約束があり、必ず実行します」と胸を張って答えた。不沈空母論も四海峡封鎖もシーレーン防衛も すべて米戦略の一環としての対ソ戦の準備にほかならない。戦場になるのは日本本土である。 犠牲になるのは日本国民である。この意味で自民党の防衛論は、日本を死の列島と化す「玉砕のすすめ」と言っても過言ではない。  力の均衡による抑止政策は、戦争を防止するために戦争の準備を強化することである。米ソのしのぎを削る核軍拡競争が、 アリ地獄に落ち込んで這い出せず緊張の激化を生み出している現実を直観すれば、戦争の準備を強化しながら世界平和を 造り出せると考えるのは、空想であり非現実的であり最も危険な政策である。非現実的に見える「非武装不戦」の道こそ 軍拡の悪循環を断ち切り、核戦争による破滅から世界を救う最も現実的な政策であり 日本の存亡を賭けるに値する唯一の針路である。 石橋委員長にその決意が見られた。玉砕か、不戦か、この論考が本誌に載る頓には現時点における国民の選択が出ているであう。                        十月二十七日