一九六四年(昭和三十九年)十一月五日、浜松市の中心地において、自衛隊発足14周年・浜松航空基地10周年を記念して、市内の目抜き通りの道路を封鎖して自衛隊の戦車百台余りの行進、そして空には戦闘機四十五機が飛び交うという、戦争の武器・武装を誇示する大パレードが行われた。それに市長や商工会議所会頭らも参加し、浜松市は文字通り市をあげて協力したのである。
そのパレードが行進したとき、その横をたった一人で「戦争準備絶対反対」というプラカードを掲げて静かにデモ行進するひとりの牧師がいた。この出来事は、当時の中日新聞十一月六日付写真入りで記事となって残っている。
ひとりの牧師とは日本基督教団遠州教会の松本美實牧師であった(現在は故人となっておられる)。
松本牧師は、太平洋戦争中、日本の教会が皆こぞって「教会号」なる戦闘機を献納したりして戦争に協力したとき、これを敢然と拒否したのみならず、全国の教会に、この戦争は間違っている、協力を止めよと「戦争反対声明」を送った方である。
そして敗戦。松本牧師は直ちに再軍備反対、平和憲法を守る運動に取りかかった。その運動の中で浜松聖書集会の主宰者・溝口正氏(故人、当時盲学校教員、後に当会代表委員)と出会い、以後二人は終生変わらぬ平和運動における戦友となったのである。
これは、溝口氏が直接語った話であるが、松本牧師のあのひとりデモのとき、「松本さん、ひとりでは何が起こるか分からない。松本さんの身に危険が及ぶかもしれないから、私も一緒に歩く」と溝口氏が言ったところ、松本牧師は、「いや、だめだ。溝口さんは、公務員だ。公務員が政治的デモと見られる行動をしたら、一家が路頭に迷う事になるかもしれない。僕ひとりで歩くから、溝口さんは道路から応援してくれ」と言ったそうである。
そして、溝口氏は道路上を移動しながら声のかぎり激励するのであるが、案の定、松本牧師は不届き者という事で、つまみ出される。すると二人は一緒に走ってパレードに追いつき、松本牧師はまたひとりデモを続け、ついにパレードが終るまでそれを敢行したのである。松本牧師はひとりデモが終わって帰宅後、トイレに行ったところ赤い小便(血尿)が出たと語ったという。戦後復活した戦争勢力と市民を向こうに回してのこのひとり行進がいかに決死の覚悟で行われたかがわかる。
これが後に「浜松市憲法を守る会」護憲平和行進の起源である。
〔1964.11.6付 中日新聞記事〕
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その後の経過
この一人デモの後、護憲平和行進が断続的に行われていたが、1968年2月11日(建国記念の日反対デモ)からは毎月第二日曜日に必ず行うことが決まり以後一日も欠かすことなく行われ、2017年2月12日、第600回の節目を迎えた。
溝口正氏は2007年亡くなられたが、溝口氏の葬儀が行われた5月13日は奇しくも第二日曜日で行進の日であった。しかし、行進を休まず行うことは溝口氏の願いではないかとの判断により、葬儀中にもかかわらず午後の葬儀に出席する者と行進に参加する者に分かれて、この日も中止することなく平和行進は行われたのである。
今回の600回記念行進に、故人となられた松本牧師と溝口正のお姿を見ることができなかったのは、一抹の寂しさを感じたが、お二人亡き後も平和行進は続けられ、ここに至ったことは、後を託された私たちには深い感謝に包まれた出来事であった。
2017年2月12日には、護憲平和行進は開始来600回目の節目を迎えた。
〔当日、行進の様子ハイライト〕